大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

福岡高等裁判所宮崎支部 昭和62年(行コ)1号 判決

控訴人

永野弘子

右訴訟代理人弁護士

増田秀雄

立木豊地

高橋清一

尾山宏

萬場友章

佐伯仁

被控訴人

地方公務員災害補償基金鹿児島県支部長

土屋佳照

右訴訟代理人弁護士

和田久

右訴訟復代理人弁護士

蓑毛長史

主文

一  原判決を取り消す。

二  被控訴人が控訴人に対し地方公務員災害補償法に基づき昭和五三年三月三一日付けでなした公務外認定処分を取り消す。

三  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

一  申立て

(控訴人)

主文同旨

(被控訴人)

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は、控訴人の負担とする。

二  主張

当事者双方の主張は、次のとおり付加、訂正及び削除するほかは、原判決事実摘示と同じであるから、これを引用する。

1  原判決九枚目表一二行目「失当である」の次に「(なお、公務が相対的に有力な原因になっていることを要するとの見解もあり、それが前記共働原因説と同一の基盤に立つものは別として、相当因果関係の判断に特別の要件を付加する見解については、右のいわゆる災害説と同様に失当であるといわなければならない。)」を加える。

2  同九枚目裏一一行目「閉鎖不全症」及び同一〇枚目裏六行目「閉鎖不全」の次にそれぞれ「(特にリュウマチ性)」を、同一〇枚目表一行目「心機能」の前に「リュウマチ性によるものであることが最も考えやすく、」をそれぞれ加える。

3  同一一枚目裏七行目「僧帽弁」から同九行目「可能性と、」までを削り、同九行目「僧帽弁」の前に「原審鑑定人竹下彰の鑑定の結果及び原審及び当審における同鑑定人の証言(以下「竹下鑑定」という。)及び当審鑑定人楠川禮造の鑑定の結果及び当審における同鑑定人の証言(以下「楠川鑑定」という。)により、」を、同一〇行目「不整脈」の前に「心室頻脈、心室細動などの」をそれぞれ加え、同一一行目「考えられるが」から同末行末尾までを「最もよく妥当するというべきである。この点について、左心房に生じた血塊による冠動脈閉塞に起因する心筋梗塞の可能性(〈書証番号略〉、原審証人山下宏、以下「山下所見」という。)あるいは冠動脈攣縮に起因する急性心筋梗塞の可能性(当審鑑定人黒岩昭夫の鑑定の結果及び当審における同鑑定人の証言、以下「黒岩鑑定」という。)を指摘する見解もあるが、これらの見解は、右竹下及び楠川両鑑定や永野の死亡に至る症状の経緯等に照らし、可能性として極めて低いか又は本件には妥当しないものというべきである。そして、右竹下及び楠川両鑑定によると、永野は、林医師による最終の診察時点である昭和五二年一月二一日ころにおいて、胸部レントゲン撮影により、心陰影の拡大、肺血管陰影の増強、間質性浮腫の所見がみられ、肺鬱血が進行して慢性的心不全の状態にあり、明らかに症状が悪化していた。」と改める。

4  同一二枚目裏二行目「悪化し」を「悪化して慢性的心不全の状態になり」と改める。

5  同一四枚目表一〇行目「永野」から同裏二行目末尾までを次のとおり改める。

「 永野の死因について、次の三つの見解がある。

(1)  心室頻脈又は心室細動などの不整脈発作によるもので、右不整脈発作が僧帽弁閉鎖不全症に伴う慢性的心不全に由来するとするもの(竹下鑑定)と慢性的心不全のみならず心筋障害にも由来するとするもの(楠川鑑定)。

(2)  僧帽弁閉鎖不全症の影響により左心房に生じた血塊が冠動脈を閉塞して急性心筋梗塞を生じたとするもの(山下所見)。

(3)  冠動脈の攣縮ないし閉塞による心筋梗塞で冠血流の停止に由来する洞停止(心停止)とするもの(黒岩鑑定)。

ところで、右(2)の見解は、僧帽弁閉鎖不全症のため、心臓収縮期に左心室から左心房に血液が逆流した左心房内に血流のうっ滞が生じて血塊が発生し、これが冠動脈を閉塞するに至るとするものであるが、これは、基礎疾病である僧帽弁閉鎖不全症の症状そのものの然らしめるところであって、永野の公務(後述のとおり、その公務が同人の心臓に影響をおよぼすような負担をかけるものではない。)によって左心房内に血塊が発生しやすくなったものでなく、右血塊が冠動脈に逆流して冠動脈を閉塞したとしても、そのことは永野の公務との関係はない。したがって、右(2)の可能性に基づく永野の死亡については、同人の公務との間に相当因果関係はないものというべきである。

次に、右(3)の見解については、本来、永野の基礎疾病である僧帽弁閉鎖不全症とは関係はないが、同人の公務、特に死亡当日の公務に冠動脈攣縮を起こすような過激な労働や運動はなく、右(3)の可能性に基づく永野の死亡とその公務との間に相当因果関係はないものというべきである。

そこで、以下、右(1)の可能性に基づく永野の死亡に関して、その公務起因性について検討する。」

6  同一四枚目裏一一、一二行目「繰り返していたが」を「繰り返していたところ、昭和五一年九月にはうっ血性心不全を併発して約五日間病気休暇をとり、さらに、同年一一月末ころから両心不全を併発して五回林医師の許に通院して抗生物質投与等の治療を受けるなどし」と改める。

7  同一五枚目表二行目「一二日」を「二一日」と、同三行目「心不全」から同四行目「同医師によれば」までを「、同医師の所見によると、心不全の症状は改善され、また」とそれぞれ改める。

8  同一五枚目表七行目「もっとも」から同裏一三行目末尾までを次のとおり改める。

「 もっとも、竹下鑑定及び楠川鑑定によると、永野は、林医師による最終診察時点において、依然として慢性うっ血性心不全の状態にあったとされている。ところで、うっ血性心不全は、僧帽弁閉鎖不全症により血液の一部が左心房に逆流するので、心臓の代償機能が働き、心拍数と心拍出量を増加させることになり、これが一定の限度を越えると心臓への負担が加重になり、血液逆流が増大して左心房圧の上昇をもたらし、このため、肺に浮腫あるいは間質性浮腫が生じて呈する症状であるが、心臓にとって負担となるのは、酸素消費量を要する肉体的労働が主であり、また、上気道感染に基づく発熱時にも、心臓への負担が増大することになるもので、一般的には、肉体的労作を伴わない座り仕事、机上の作業のような精神的労働は、心臓にとって負担となるものではない。そして、永野の場合、昭和五一年度の公務は、後記のとおりであって、例年よりいささか多忙ではあっても、その内容は専ら精神的労働であり、何らの肉体的労作を伴うものではなく、これが同人の心臓に負担をかけ、うっ血性心不全をもたらすような過重なものであったとはいえない。永野は、同年秋以降、感冒などの上気道感染に罹患しやすくなり、罹患頻度が高まって心臓が代償不全に陥り、その結果うっ血性心不全を併発していたものといえるが、右うっ血性心不全は、永野の有する基礎疾患と上気道感染に罹患したことによるものであって、右感染症は永野の公務と関係があるとはいえない。したがって、永野が慢性的なうっ血性心不全の状態にあったとしても、それは、僧帽弁閉鎖不全症に由来する、公務と関係のない経年、加齢による自然経過と右のような上気道感染の繰り返しによる代償不全によって自然に増悪していったものというべきである。」

9  同一九枚目裏八行目「九月」を「九月九日ころ」と、同末行「五日間」を「一週間」とそれぞれ改める。

三  証拠の関係は、本件記録中原審及び当審における書証目録、証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

一当裁判所は、控訴人の本訴請求は理由があるものと判断するが、その理由は、次のとおり付加、訂正及び削除するほか、原判決理由説示と同じであるからこれを引用する。

1  原判決二〇枚目裏八行目「証人」を「原審証人」と、同行「同」を「原審及び当審証人」とそれぞれ改め、同八、九行目「暁泰臣」の次に「、当審証人平原勝」を加え、同九行目「原告」を「原審における控訴人」と改める。

2  同二三枚目裏六行目末尾に「なお、県内の他の高校では、教務主任の場合、授業時間を軽減する措置が取られるのが通例であるが、永野の場合、右のような牧之原高校の特殊事情から、授業時間の軽減等の措置は取られなかった。」を加える。

3  同二五枚目裏二行目「同年」の前に「初めて「僧帽弁閉鎖不全、うっ血性心不全」との診断書を提出し、心臓の具合が悪いことを明らかにして、」を、同九行目「深夜に至るまで」の次に「急遽作成を余儀なくされた」を、同一〇行目「作成して」の次に「通常より一時間ほど遅い」を、同一一行目「登校して」の次に「右推薦書等の」をそれぞれ加える。

4  同二六枚目表二行目「牧之原高校」の前に「従来認められていた」を加え、同三行目「不可能になった」を「今年からできなくなった」と改め、同行「昼休み」の前に「なお、永野は、同僚に対し、午前中の授業で非常に疲れた旨漏らしており、また、右校長の話にショックを受け非常に興奮していた。その後、」を加える。

5  同二六枚目裏三行目「一二号証の一、二、」の次に「第二一号証の一、二、第二二、第二三号証、」を加え、同行「証人」を「前記証人」と、同四行目「同林茂文」を「原審証人林茂文」と、同行「同竹下彰」を「原審及び当審証人竹下彰、当審証人黒岩昭夫、同楠川禮造」と、同五行目「原告」を「前記控訴人」と、同行「鑑定の各結果」を「原審鑑定人竹下彰、当審鑑定人黒岩昭夫、同楠川禮造の各鑑定の結果」と、同八行目「昭和一一年」を「昭和一一年九月四日」とそれぞれ改める。

6  同二六枚目裏末行「七月二五日頃」を「七月三〇日」と、同二七枚目表二行目「同年」から同四行目末尾までを「翌三一日都城市内の共立病院を受診した後、同年八月二日鹿児島市内の南風病院を受診し、同病院に同月六日から同月一五日まで入院して検査と同時に治療を受け(右検査結果及び治療内容を証する資料は現存しない。)、右退院後も同病院から投与を受けた内服薬を服用していたが、同年九月七日同市内の開業医である林医師の診察を受けた。」とそれぞれ改める。

7  同二七枚目表一〇行目末尾に次のとおり加える。

「また、林医師は、永野の僧帽弁閉鎖不全症の程度を中等度と判断したが、それは、次のとおりのニューヨーク心臓協会による心機能分類の四段階のうちのClass Ⅱに、また、同協会の安静度五段階のB又はCに当たるものと考えられる。

心機能分類

Class Ⅰ 日常の労作により心愁訴をきたさないもの

Class Ⅱ 安静時または軽労作では症状が出ないが、激しい労作で心愁訴をきたすもの

Class Ⅲ 普通以下の労作で心愁訴をきたすもの

Class Ⅳ ごくわずかの動作、安静時にも心愁訴のあるもの

安静度

A  日常活動に制限を要しないもの

B  日常活動に制限の要はないが、激動を避けるべきもの

C  身体活動に軽度の制限を要し、中等度以上の運動を禁ずるもの

D  身体活動を制限すべきもの

E  臥床絶対安静を要するもの」

8  同二七枚目裏一行目二個目の「僧帽弁閉鎖不全」から同九行目末尾までを次のとおり改める。

「僧帽弁閉鎖不全症の病因としては、リュウマチ性、非リュウマチ性、先天性のものが挙げられ、リュウマチ性は、幼児期(通常五歳から一五歳)に罹患するリュウマチ性心内膜炎症の後遺症であって、リュウマチ熱が治癒していく過程で弁尖の瘢痕、肥厚、短縮、変形をきたし、その結果招来されるものであり、これが僧帽弁閉鎖不全の大部分を占めるといわれ、また、慢性のリュウマチ性炎症が継続して徐々に症状が進行し、二〇代、三〇代になって症状が発現してくる例も多いといわれている。次に、非リュウマチ性は、発症及び進行が急激な場合が多く、その病因は、先天性を除くと僧帽弁を構成する腱索断裂(外傷等によるもの)及び乳頭筋断裂(心筋梗塞、狭心症、急性心筋炎、心筋症などによる虚血性変化によるもの)、僧帽弁逸脱症候群によるものなどが挙げられる。ところで、永野の場合、僧帽弁閉鎖不全症の病因は明らかではないが、前記2の昭和四八年七月の発症時から後記8の昭和四九年七月の霧島杉安病院での検査の時点、また、昭和五〇年八月九日撮影のレントゲン撮影までの時点(〈書証番号略〉)において、症状が発症以来特に増悪しているとは認められないこと等に照らし、急性のものと考えるのは困難で、症状の進行の緩慢性や三八歳に発症していることも前記所見と矛盾しないことを考えると、一般的に多いといわれるリュウマチ性によるものが最も考えやすいといえる。この点につき、楠川鑑定は非リュウマチ性の可能性を示唆しており、リュウマチ熱の既応歴が見い出せないこと、発症後相当の治療を受けていると推測されることを根拠とするが、右は、前者については訴訟に現れた診断書等から既応歴が不明(幼児期における病歴は不明)なだけであって、リュウマチ熱の発症がなかったとはいえないことや、後者については、格別の治療を受けていないことが認められることのほか、急性発症ではないとする竹下鑑定に照らし、にわかには採用できない。そして、リュウマチ性の僧帽弁閉鎖不全症は、比較的治療になじみ、処置がし易く、適当な自己コントロールがなされれば、何らの自覚症状もなく経過する例もあり、また、重大な症状を呈することなく寿命を全うできる例も多いといわれている。」

9  同二八枚目表九行目「上気道感染に基づく発熱や」を削り、同一一行目「また、」の次に「上気道感染(感冒もこれに含まれる。)に基づく発熱も心臓に負担をかけ、さらに、」を加える。

10  同三〇枚目表六行目と七行目の間に次のとおり加える。

「 なお、永野の胸部レントゲン写真は、昭和五〇年八月九日撮影分と、死亡直前の昭和五二年一月二一日撮影分の二枚しか存しないが、楠川鑑定によると、前者の写真では、左室拡大がみられるものの、左房拡大ははっきりしないが、肺血管陰影の軽度の増加がみられ、軽度の肺動脈圧の上昇及び肺うっ血の存在が疑われるとされている。したがって、昭和四八年発症から右昭和五〇年八月までの間で、症状はやや増悪していると考えられるが、右の経過等を総合すると、少なくとも自然増悪の程度を越えた症状の格別の増悪があったとまでは認められない。」

11  同三〇枚目裏五行目「永野は」から同七行目「あったため、」までを「永野は、うっ血性心不全(両室不全)の状態に陥り、また、度々感冒に罹患するなどしてさらに心不全の状態を繰り返すことになった。このため、永野は、愁訴を覚えて、従来二週間に一回の通院回数を毎週一回の割りに増やして林医院に行き、」と改める。

12  同三〇枚目裏一〇行目「ところが」から同三一枚目表四行目末尾までを次のとおり改める。

「 ところが、永野は、冬季休暇があったこともあり、昭和五一年一二月末から約一か月間も林医師のもとに通院せず、昭和五二年一月二一日(死亡六日前)にようやく同医師のもとに通院して治療を受けたが、このとき撮影された胸部レントゲン写真によると、前記昭和五〇年八月撮影分に比べ、明らかな心陰影の拡大、すなわち、左室、左房及び右房の拡大がみられ、肺血管陰影が増強し肺うっ血が進行し、慢性心不全の状態に陥っており、昭和五〇年八月時点よりかなり症状が悪化していた。しかし、林医師は、肺血管陰影の増強、間質性浮腫の所見は認めたものの、その余の点では症状に特段の変化はなく、心不全状態は悪化しておらず、昭和五〇年八月撮影のレントゲン写真との間の著変はないとして、むしろ心不全状態は寛解しているものと判断した。」

13  同三一枚目表六行目「感じていたが、」の次に「永野は、外見上」を加え、同裏一行目「なかった」を「なかったし、冬季休暇明けから普段どおりの仕事に従事し、殊に前記のとおり、昭和五二年一月二一日の診断で、林医師から安静や仕事の軽減等の指示を受けなかったので、格別安静を保って療養するなどのことはしなかった。」と改める。

14  同三二枚目四行目「永野」から同末行末尾までを次のとおり改める。

「永野の死亡の原因については、次の三つの見解がある。

(1)  僧帽弁閉鎖不全症によって惹起された慢性的心不全により、心室頻脈又は心室細動の不整脈発作を起こしたとするもの(竹下鑑定)と、右不整脈が慢性的心不全のみならず心筋障害等他の原因の可能性も示唆するもの(楠川鑑定)。

(2)  僧帽弁閉鎖不全症の影響により左心房に生じた血塊が冠動脈を閉塞して急性心筋梗塞を生じたとするもの(山下所見)。

(3)  心筋梗塞の前駆症としての冠動脈攣縮(洞結節機能が障害され、洞停止(心停止)に至る症状。)から心筋梗塞に急速に発展したとするもの(黒岩鑑定)。

そこで、右の各見解について検討するに、前記認定のとおり、永野は、昭和五二年一月二七日午後二時五五分ころ、第一回目の発作を起こし意識を失ったが、その際、胸痛はなく、五分ないし一〇分で意識を回復し、意識状態は清明で呼吸困難なく、不整脈もなかったもので、その後二度の発作を起こし、最後の発作時に意識消失とほとんど同時に心停止が発生している経緯や心電図の所見から、冠動脈の攣縮、あるいは、冠動脈閉塞に基づく急性心筋梗塞の可能性は否定しうるか又は極めて少ないとの竹下鑑定及び楠川鑑定は十分合理性があるものということができることや、黒岩鑑定は比較的稀な可能性であるといえることなどを考慮すると、永野の死因としては右(1)の見解が最も妥当性を有するといえる。なお、楠川鑑定は、右心室頻脈あるいは心室細動について慢性心不全のほか、心筋障害等の影響の可能性も示唆するが、右見解は、同鑑定人の永野の僧帽弁閉鎖不全症が非リュウマチ性との考えに基づくもので、前述のとおりにわかに採用することができない。」

15  同三三枚目表二行目「しかし」を「そこで、本件において永野の基礎疾病と同人が従事した公務との関係について検討するに、」と、同裏二行目「もっとも」から同三六枚目裏末行目末尾までを次のとおり改める。

「 しかし、永野は、昭和五一年四月以降、校務分掌上枢要な職分である教務主任の地位に就き、前記3(三)のとおりの教務主任の職務をこなし、殊に通例教務主任の場合授業時間数を軽減されるべきところ、牧之原高校の当時の特殊事情から軽減されないまま四年生担任の仕事と合わせて右職務に従事したほか、前記3(四)(1)ないし(5)のとおりの例年にない校舎移転に係わる仕事等も行い、牧之原高校の中心的存在として職務に精励していたものであり、さらに、死亡前三か月間、ほぼ毎日のように残業や仕事を持ち帰って自宅でも公務を行っていたものであって、昭和五一年度において、永野は相当多忙であったといえる。

次いで、右の永野の公務の程度の推移と、前記の病状の変化、推移とを比較対照するに、永野の公務は、昭和五〇年度までは格別の変化はなく、また、僧帽弁閉鎖不全症の症状も、昭和四八年の発症から昭和五〇年度までにおいて、ある程度の心不全状態を繰り返しながらも、その都度寛解して経年的増悪の程度を越えるような目立った増悪は認められない。しかるに、永野は、昭和五一年四月以降、教務主任の地位に就いて相当多忙となり、しかも、同年五月ころから校舎移転関係の仕事にも従事し、さらに実験室の移転が終わった九月までは約七〇〇メートルほど離れた実験室まで徒歩あるいは自転車で行かなければならない状態となったことや、夏期に職場訪問のため一週間位関西方面に出張したことなどの仕事の状況に符合して、昭和五一年六月に心臓に愁訴を感じ、初めてこれを同僚に漏らして年休をとり、さらに、同年九月には心臓疾患の存在を示す診断書を提出して休暇を取っているのであり、この結果、同僚教員等において、永野が僧帽弁閉鎖不全症の心臓疾患を患っていることを知るに至ったものであるが、それまで永野は、同僚に心臓に疾患のあることを全く知らせていなかったのであり、日頃、元気に振る舞って自らの疾患を口に出したりしたことのない永野が、心臓の痛みを漏らすなどし、また、初めて一週間もの休養をとったのは、自覚症状としてそれまでに感じた以上の相当の愁訴を感じていたものと推測することができる。そして、同年一〇月以降から同年末までの間、度々感冒等の感染症に罹患し、頻繁に林医師のもとに通院するに至っているのであって、このころ、既に永野の慢性心不全の状態は相当悪化していたものと認められるのである。なお、右症状悪化の程度は医学的にも極めて判断が困難であって、竹下、楠川両鑑定からも明らかではない。しかし、永野の僧帽弁閉鎖不全症の発症がリュウマチ性のもので、初期の段階が中等度であったこと、本来その症状の進行は比較的穏やかといわれていること、さらに、楠川鑑定において永野の僧帽弁閉鎖不全症の発症が非リュウマチ性であることを疑う背景には、永野の症状の発生以来、進行が急激であると認識していることが窺えることに照らすと、その悪化の程度は、経年的自然増悪の範囲を越えているものと推測でき、少なくとも、それが経年的自然増悪の範囲内にあると認めるに足りる的確な証拠はない(前述のとおり、林医師の証言、黒岩鑑定は採用できない。)。

この点につき、被控訴人は、永野が教務主任の地位に就いて相当多忙であったとしても、永野は校務に習熟したベテラン教師であったから、とくにそれが過重であったとはいえないし、ことに、永野の仕事は主として机上の仕事であるから心臓に負担のかかるものとはいえない、また、永野は、公務と関係のない感冒により心不全に陥り、さらに、これにより感冒に罹患しやすくなるという悪循環に陥ったものである旨主張する。確かに、永野が校務に習熟していたことは前記認定事実から明らかで、また、永野の仕事が主として机上の仕事であって、心臓に最も大きな負担をかける肉体労働等でないことも前記認定のとおりである。しかし、永野の公務は、単純な比較においても他の同僚教員より多忙なものであって、殊に僧帽弁閉鎖不全症という基礎疾患を有する永野にとっては、いかに校務に習熟しているとはいえ、負担としてより大きなものであったといえるし、永野の教務主任としての仕事はほぼ机上の作業といえるが、実験を伴う農業土木科の教員としての仕事を、専ら机上の作業で、何ら心臓に負担を及ぼさないものと断じることは疑問なしとせず、いずれにしても仕事として相当の緊張を伴うことは否定できない。さらに、感冒罹患の点について、感冒に罹患することが公務と因果関係があるものといえないことは被控訴人主張のとおりであるが、前記のとおり、永野は、昭和五一年九月ころには既に慢性心不全の状態にあったと認められるから、慢性心不全の状態が存するため抵抗力が弱くなって感冒等の上気道感染に罹患しやすい状態になり、このため容易に感冒等に罹患し、これを繰り返すことによって心不全状態を悪化させていったと考えるのが相当であって、感冒に罹患し発熱によって心不全状態になり、それがさらに感染症に罹患しやすくなるという悪循環に陥ったという被控訴人の主張は必ずしも当を得たものということができない。

そして、翻って叙上の永野の症状が悪化していたことについて考えるに、永野は、公務以外の日常生活においては、規則正しい生活を送るなど厳しく自己管理をし、特にこれを乱し、あるいは激しい運動をしたような事実は認められないのであって、永野の心臓疾患の当初の程度が中等度であり、前記ニューヨーク心臓協会の心機能分類及び安静度段階(同分類等は目安という程度のもので、医学的に厳密なものではないが、一応の基準としては妥当なものと認められている。)により、安静時、軽労作で無症状であるが激しい労作で心愁訴をきたす、したがって、日常活動に制限の必要はないか、または制限があるとしても軽度のもので、激しい運動や中等度の運動を避けるべきものに該当するものであることを考慮すると、右のように公務以外で厳しく自己管理をしていた永野が、前記のような心愁訴を覚えるに至った原因としては、公務の影響以外に他に原因を見い出し難いものというほかない。

3  そこで、さらに進んで昭和五二年に入ってから死亡までの間の永野の公務との関係について考えるに、永野は、一〇日間の冬季休暇中も、年末年始に訪問してくる四年生の接待に追われ、休暇明けから死亡当日まで前認定のとおりの通常の公務に従事したが、その公務は、従前の公務と同程度であって、冬季休暇中の四年生の接待を考慮しても、特に公務が過激なものであったとまでは認められない。

しかし、永野は、年末年始であったこともあり、約一か月間林医師のもとに通院せず、同年一月二一日に通院した際撮影されたレントゲン写真により、慢性心不全状態は寛解していないばかりか悪化した状態にあったのであり、冬季休暇中及び三学期に入る際にも同様の状態にあったことが推測され、竹下鑑定により、相当の安静を要する状態にあったものと認められる。

しかるに、永野は、林医師において心不全状態は寛解しているものと判断したこともあり、同医師から安静を要するとの指示を受けなかったため、右一月二一日以降も通常の公務に従事した。そして、死亡前日は、予定外の測量専門学校への推薦書及び調査書の作成に深夜遅くまで従事し、さらに当日は、通常より早く出勤してそのコピー取りをした後、授業を行ったが、午前中の授業で疲労感を訴え、さらに、昼休みに校長から生徒の右専門学校入学ができなくなったことを聞いて相当興奮し、その後、午後二時五五分ころ倒れたものである。

4  よって、以上の諸点を総合して判断するに、永野の死亡は、その基礎疾患たる僧帽弁閉鎖不全症が、昭和五一年度以降の公務によって経年的自然増悪の程度を越えて増悪して心不全の状態になり、さらに、その増悪し、慢性化した状態で安静をとることなく公務に従事したため心室細動又は心室頻脈の不整脈発作を起こしたことによるもので、基礎疾患と公務が共働原因となって発生したものというべきであるから、永野の死亡と公務との間に相当因果関係を認めるのが相当である。」

二以上によると、被控訴人の本件処分は違法であって、その取消を求める控訴人の本訴請求は理由がある。

よって、原判決を取り消し、控訴人の本訴請求を認容することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法九六条、八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官鐘尾彰文 裁判官中路義彦 裁判官郷俊介)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例